祖母からの日記帳
私が30歳になった時に祖母がくれた日記です。少しずつ紹介させてください。
昭和55年8月25日、貴女のお父さんと初めて逢いました。貴女のお母さんと交際させて下さい。又、結婚させて下さいという事でした。
お父さんとお母さんは以前より、そうお母さんが高校一年生の時にお父さんがミシンのセールスマンとしてお母さんの家へ訪れました。私は仕事に出ており、その事を知りもせず、その後のお母さんの様子がどうも今までのお母さんと違うような気がして不審に思っていましたが、その時はすでに交際しておりました。お母さんの学校の成績がどんどん低下していきました。希望の大学を受験する事も、就職をする事も無理だと先生から聞かされました。最初は150番以内の成績が卒業の時の成績は450人のうち445番より下だったと思います。
小学校から中学校まで毎年毎学期のように、学級委員や生徒会の役員をして、皆の手本になるような優しくて素直で明るいお母さんでした。でもお父さんと交際するようになってからは学業成績も落ち、カンニングをしたりして、おじいちゃんは学校に呼び出しを受けたり、それはそれは悲惨な家族となりました。それでも何とか短大へ進学する事が出来、保母さんの資格を受けるべき勉強をしておりました。
しかし、貴女のお父さんは仕事もせず(23才位)長崎のお婆さんより小遣いを貰って遊び廻り、お母さんの学校の行き帰りにも付いて廻る人でした。私達親は、仕事もなく無収入では結婚しても生活して行けないので、お父さんが仕事に就くまで又、お母さんが大学を卒業するまでそれぞれの道を進み、その後結婚してもいいのではないかと話しましたが聞き入れてくれず。
昭和56年2月26日、貴女のお母さんは仕事もないのにお母さんを気のみ気のまま電話で連れ出してしまいました。お母さんは大学を中退する事になりました。
それから一年近くお父さんとお母さんは私達の家には連絡もないままに姿を見せなかったのです。でも長崎のお婆さんはお父さんやお母さんの住所を知っていました。というより、何にも出来ないお父さんは、お母さんを連れ出してみたもののどうすることも出来ず長崎のお婆さんに頼んで仕事をする事を条件に、佐世保へ連れ出して生活をさせていたのです。でももともと仕事をする事を嫌いなお父さんはどの仕事も長続きせず、結局は長崎のお婆さんの家の近くへ帰りお婆さんの御世話になり生活をする事になりました。
貴方が産まれた事を聞いたのは昭和56年12月24日午後四時でしたが、お父さんから女の子が産まれましたと電話がありました。住所は教えて呉れませんでした。
その間昭和56年7月10日、私達親には相談もなく結婚届を出しておりました。
20才を過ぎれば二人の合意で結婚出来ますので。
貴方が産まれる前…そうお母さんが行方不明になってからも周りの人々がいろいろ協力してお母さんの居所を知らせて呉れましたが判らず家を探し出したのは貴方が産まれてからでした。
私は昭和56年7月13日、目が見えなくなり手術をして8月14日に退院しました。それから毎週大学病院へ通院しておりました。その帰り、いつも貴女の住む家を探す事が仕事になりました。
長崎中をお祖父さんもお祖母さんも探しました。
警察にもお願いしました。でも長崎のお祖母さんは教えて呉れませんでした。
でも私は懸命に探し、貴女と逢う事が出来ました。
昭和57年2月9日だったと思います。探し探して廻るうち小さな坂の上の家にオムツがひるがえり、赤ちゃんの泣く声が聞こえました。きっと貴女が知らせて呉れたのでせうか?そこが貴女の住む家でした。
私が右眼を失った年に、貴女には『瞳』という名前が付けられていました。偶然でせうか?
私が貴女に逢った時、お父さんは働かず家に居ました。長崎のお祖母さんから毎日500円貰って暮らしていました。貴女はミルクもなくラーメンの汁を吸っていました。勿論お母さんは栄養不足でお乳が出ませんでした。
私は長崎の病院へ行く毎に貴女の所に寄り、野菜や食べ物や洋服を届けました。
喜々津のお祖父さんも、嫁入り道具のなかったお母さんへタンスや日用品を届けました。
お父さんも何回も何回も職業をかえながら、それでも結局食べてゆく事は出来ず長崎のお祖母さんのお世話なっていました。
私達は貴女が可哀想で話し合って喜々津へ来て住むようアパートを借りてやりました。
そして、貴女達三人の生活が始まったのです。
昭和58年3月だったと思います。
引越し料、家賃、敷金、家具、総て不自由のない様に喜々津のお祖父さんが援助して呉れました。
喜々津へ来てからもお父さんは相変わらず定職につかずあそこに二ヶ月、ここに一ヶ月と職を変わりました。
昭和58年12月貴女が二才になってから、お母さんが働く事になりました。貴女は私が預かって面倒見る事にしました。お母さんが働く様になると何故かお父さんは働く事に積極的になって行きました。
お母さんの給料ではとても食べる事が出来ず、いつも口論が続きました。
結局私達が家賃や食料を援助する事を続けましたがお母さんは、お父さんの性格に不満を言うようになり昭和60年6月頃から何だか離婚を考えるようになった様です。お父さんとけんか口論をしては家を飛び出し、それでも喜々津のお祖父さんやお祖母さんに心配掛ける事に気を配り又、貴女の事が可愛くて家へ帰っておりました。
貴女はいつも、お父さんとお母さんの生活を私に話して呉れました。余り幸せでないお母さんの事を知りました。
昭和61年4月、貴女は幼稚園へ行く事になりました。
お母さんもLと言う会社へ仕事へ出かけ、一応お父さんもパチンコ屋へ勤め安定した生活になって行ったようです。しかし昭和62年2月お父さんは又もパチンコ屋を辞めてしまいました。
お母さんの給料だけではとても生活出来ず、困り果ていよいよ離婚を決意しました。昭和62年の8月です。働かないお父さんは口論の末暴力を振るい、貴女にまで手を掛ける始末で恐ろしくなったお母さんは貴女を連れてお祖父さんとお祖母さんの家へ逃げて来たのです。
お父さんは本当に利己主義で自分だけが立派な人間で他の人は皆駄目な人間と思っております。
理屈にならない理屈を言って人を困らせます。
長崎のお祖父さんもお祖母さんも私達も近所の人もお父さんを相手にしなくなりました。どこへ行ってもお父さんは信用のない人間だったのです。
貴女のお母さんはお人よしで人を疑う事を知りませんでした。
貧しくはありましたがお祖父さんが真面目に厳しく生きる人でしたので家庭は明るく自由に展開していきました。
お母さんはその中で素直に優しくまるで温室の花の様に育ってゆきました。貴女のお父さんと廻り逢った時、お母さんは始めて家庭とまるで違った空気に触れたみたいにそちらに吸い込まれてゆきました。貴女のお父さんは自分が超能力者でお母さんを1日見た時からお母さんと結婚すれば一生幸せになれると信じた。どんな事をしてもお母さんと結婚するといってお母さんを私達の反対を押し切って連れ出したのです。
私は一目貴女のお父さんを見た時、この人と知り合った事はお母さんはもとより私達一家は不幸に落ちてゆくことを感じました。それでもお母さんはお父さんに日、一日と感化されてゆき、私達の言う事を聞かなくなりました。
でも天の神様は良く見ていらっしゃるものです。
お父さんとお母さんは次第に不幸への道をたどり始めました。
親不孝、親のいう事を聞かない人はきっとその報酬が来るものです。罪を受けるものです。
貴女が4才5才と大きくなって来るにしたがって、お父さんと全く似た人間になって行く事にお祖母さんは愕然としました。どんなに躾をしようとしても聞き入れてくれなくなりました。幼児期の反抗と言われる現象でせうが、あまりにもお父さんに似て来る貴女を何だか悲しく、それでも毎日毎日お祖父さんの家で暮らしました。ピアノも弾きました。泥遊びもしました。字も覚えました。絵も描きました。ねんどもしました。玩具で遊びました。お友達も沢山遊びに来ました。お菓子もいっぱい食べました。アイスがとても好きでした。パンも食べました。ヨーグルトも食べました。のりまきおにぎりが好きでした。お祖母さんの作る食事を美味しい美味しいと食べました。あまり泣きませんでした。一度笑いだしたら止まりませんでした。
昭和62年8月26日夜、お父さんから暴力を振るわれた貴女とお母さんは家を逃げ出し、夜のバス停へ行きました。
でもバスはもう終了でどこへ行くことも出来ずお祖父さんの家へ電話をかけて来ました。お祖母さん達は懸命に探し貴女とお母さんを家へ連れて来て、その夜からお母さんの実家である喜々津のお祖父さんの家で暮らす事になったのです。そして毎日ワイワイと暮らしました。
昭和63年1月18日、突然お父さんが幼稚園に行き幼稚園から貴女を連れ出しました。夕方戻って来ましたが翌19日貴女は再びお父さんの所へ行き、それから貴女は帰って来ませんでした。幼稚園に行かせられず毎日暗い部屋でお父さんと寝ていました。
お父さんは自動車の免許もとれず働く事もせず長崎のお祖母さんから生活費を少しずつ貰って生活していました。幼稚園の先生も近所の人も皆心配して早くお祖母さんの家へ帰るようにと相談し、お父さんとも話し合いました。
それでもお父さんは貴女を抱きかかえて離さず、貴女もどうしてか帰らないと言いました。
何度も何度も皆で話し合いましたが同じ事の繰り返しで話し合いはまとまりませんでした。
貴女は咳をし、下痢をし、尿道炎になりました。生活が変わり食事が変わり、不潔にしていたので大変な病気になりました。
それでもお父さんは病院にも行かせず毎日毎日寝て暮らし、人目のない夜に買い物に出たりしていました。貴女がお母さんの所へ帰って行くのが心配で怖くてお父さんは一日中、貴女につきまとい、幼稚園にもやらなかったのです。
お父さんは貴女が『お母さんが溝の中につき落とすので怖いのでお母さんの所には帰らない』と言うのでお母さんへ渡す事は出来ないと、まるで納得いかない理由を言って貴女を離そうとしませんでした。
私共には本当に理解の出来ない事でした。
お祖母さんは想い出しました。
貴女のお母さんが家を出て行った10年前、貴女のお父さんは『喜々津の親は厳しく口やかましい、そんな家に住まなくても自分が優しくお前を守る』といってお母さんを帰して呉れなかった事を…。今丁度貴女もお父さんから帰らない様に思い込ませる暗示を与えられている事を…。
それでもお母さんは10年過ぎた今、又、私共の所へ帰って来ました。お父さんの余りにも精神的異常さに気付いたからです。きっと貴女もいつか帰って来ると信じます。でもお母さんがそんな目に逢った年齢と貴女の年齢とでは、心身共に異なった立場にあります。貴女はまだ6才、お父さんの間違った考え方で育てられてゆくと将来が本当に恐ろしくなります。どうかどうか貴女がいい娘に育ちますように願っています。そしてお母さんを憎まず判ってあげられる心の広い人間に成長する事を願っています。
昭和63年2月15日、何日振りでせうか貴女に逢いました。お祖母さんの所へ帰ると、あまり泣いた事のない貴女が大きな大きな声で泣きました。貴女はその時も咳が出ると言って幼稚園を休み、お父さんと寝ていました。
貴女は外へ出ると言って玄関まで出て来ましたが、お父さんから抱きかかえられて又、暗い部屋の角に連れ戻されました。そしてお父さんは『お母さんの所へは行かんと言ったろう、お祖母さんの家には帰らぬと言ったろ』と貴女を押し付けて叱りました。貴女はいつまでもいつまでも泣いていました。お祖母さんは何度もお父さんへ言いましたが、とうとう貴女を押さえ込んで私へ渡してくれませんでした。私は貴女が可哀想で涙が出ました。どうする事も出来ずお祖母さんは家へ帰ったのです。満足に食事もせず痩せていました。青い顔をしていました。暗い部屋でした。
まるで犯人が人質を取り部屋に立てこもった状態、本当の精神状態のお父さんではありません。本当に貴女が可哀想でした。近所の人達が時々貴女に外で逢うそうですが、いつも暗い顔をして、人目をはばかる様にお父さんの影に隠れて歩いていたと話して呉れました。
6才の貴女には何も判断出来る事ではない。お父さんが、貴女に言い聞かせてそのようにさせていたのです。
昭和63年2月19日、幼稚園から人形劇を見に行く事になりました。病気の貴女が大好きな人形劇を見に行ける状態か心配でした。幼稚園の先生と相談して病院へ診察して貰う事にしました。病院へ人形劇が終わってから診察へ行きました。
栄養不良、貧乏…診察の結果、もう少し手当が遅ければ大変な事になるところでした。
病院の先生はお父さんにお話をしました。『お母さんのところで育てるように』と。
それから貴女はお祖父さんの家で、お母さんと一緒に暮らしました。病院に通いました。20日間、どうにかご飯やお茶を食べれるようになりました。それでも、外出する事や御近所の人とお話する事を遠慮しているようでした。きっとまだお父さんが『人と話したらいけない』と言っていた事が心のどこかに残っているのでせうか。その間、又お父さんは幼稚園に貴女に逢いに行きました。でも幼稚園の理事長先生からいろいろお話を聞き貴女を連れて帰る事を思いとどまった様です。
だんだん学校へ行く時が近づきます。筆箱、机敷、ぞうり袋、殆ど準備が出来ました。お母さんと喜々津のお祖父さんが買ってくれました。勉強する部屋もきれいに準備する事にしました。
昭和63年3月18日は卒園式でした。無事に卒園出来て家族一同ホッとしました。貴女がお父さんの所へ行ってから本当に卒園出来るのかと心配しました。園長先生や保母先生には本当に御世話になりました。お父さんが貴女を連れて行かなければこんな御迷惑は、かけずにすんだのにと悔やまれます。お父さんにもっともっと世の中の事を勉強して貴女が一人前に成人出来るように、協力し、努力してもらいたいと思います。
昭和63年3月23日、右下の歯が少し痛いので歯医者へ治療へ行きました。頑張って治療しました。少し食事がしづらくて食欲がありません。
昭和63年4月7日、入学式でした。冷たい雨が降っていました。でも元気でお母さんと一緒に学校へ行きました。
1年2組、原先生です。8日、近所の洋服店のしょうこさんが迎えに来て呉れました。喜んでしょうこさんと7時半学校へ行きました。元気、元気。
毎日6時半に起きて、食事、洗顔、着替え、とても立派に出来ます。この習慣がいつまでも続きますように。
昭和63年4月19日8時40分、お父さんの親夫妻とお父さんが離婚届に捺印の為、お祖父さんお祖母さんの家へ来ました。貴女のお父さんとお母さんが離婚する事になったのです。
お父さんは3月1日より4月30日まで仕事をして働いていても、給料より住宅家賃や水道、電気、ガス代等々生活費を出そうとはしませんでした。そして、それどころか19日には長崎のお祖母さんよりお金を銀行に振り込んで貰いました。一ヶ月働いた給料を10日間で使い果たしてしまったのです。本当に金銭感覚のない人なんです。こんな状態が今まで貴女やお母さんに満足に食べさせる事も生活させる事も出来なかったお父さんの本当の姿なのです。
昭和63年4月26日、お父さんと長崎のお祖父さん、お母さんと喜々津のお祖父さんが諫早の裁判所で離婚する事に調停員の調停のもと、ようやく解決しました。
貴女の為には世の中で只一人の父と母です。離婚する事は貴女にとっては本当に不幸な出来事だと思います。でも前から書いて来ましたように、お父さんは働かず貴女にもお母さんにも食べさせる事が出来ずお祖父さん生活が成り立ってゆきませんので仕方のない事でした。貴女を学校へやったり、生活をさせたり出来るのは喜々津のお祖母さんの家でなければ出来ない事なのです。お母さんの給料、9万円では母子2人生活してゆく事はとても大変です。何とか貴女が学校を卒業して就職するまではお母さんと二人頑張ってみて下さい。一生懸命生きて下さい。
貴女達にとってはまだまだ長い人生です。これからどんな事が起こるのか私達には判りません。でも今日1日を精一杯生きるようにして下さい。人に迷惑掛けないように…。母子で助け合って…。
昭和63年4月30日、離婚の届出が出来ました。
昭和63年5月13日、貴女を扶養する為、医療、生活扶養手当の申請を役場で行ないました。
お母さんの社会保険にも加入認可して頂きました。
昭和63年5月15日、お父さんは長崎へ引越す事になりました。私と長崎のお祖母さんとお父さんで片付けをしました。道具家具いろいろありましたが、お母さんは自分と貴女の衣類と和ダンス1本を持って来ました。お母さんは貴女のオモチャも持ってね。(学校帰りに食堂の前でお父さんに逢ったのですね。引越前に逢った最後でせうか?)
昭和63年9月15日、お母さんは都合で(病気治療(肩こり)や人間関係)会社を辞めて、新しい会社へ移りました。
慣れない仕事で大変のようですけど元気に頑張っています。貴女も一生懸命きちんと勉強したりして、今のところ何とか平凡に暮らしているようです。
昭和63年11月1日、この頃瞳ちゃんは言う事を聞かなくなりました。お母さんが残業等々で欲求不満なのでせうか?又、学校で何かあるんでしょうか?近所にはお友達がいなくて淋しいと思います。お友達がいっぱいいるといいと思いますね。その中から瞳ちゃんと一番気持ちの合うお友達を作って欲しいと思っています。いつまでも続く親友をね。
昭和63年11月13日、七五三祭。
11月15日が七五三ですが13日が日曜日でお母さんも休日でしたので七五三で7才(現在は6才11ヶ月)の詣りをしました。
着物は昭和57年夏の長崎大水害で家が水に浸かり泥水に汚れて捨てました(お母さん・お母さんの妹のもの)のでパーマ屋さんから借りました。帯や其の他ぞうり等の小物が残っていましたので、それを使いました。品物は大事にすると二十年前の物でも立派に役に立ちます。喜々津のお祖父さんが一生懸命働いて下さったお金で求めたものです。きっと瞳ちゃんの子供にも使えると思いますよ。
神社に参詣して写真も撮りました。きっといい記念になると思います。長崎のお父さん、お祖父さん、お祖母さんからは引越して行ってから何の連絡もありません。瞳ちゃんの事なんか少しも思ってくれないのでせうかね。
平成元年3月31日、お母さんが職場の人が退職されるので送別会がありました。遅くなりお祖父さんから叱られるのが怖いと、お母さんはその夜帰って来ませんでした。お祖父さんとお祖母さんは一晩寝ずに帰りを待ちましたが、とうとう帰りませんでした。お友達の家へ朝早くから連絡しましたがどこにも居ませんでした。瞳ちゃんも大変心配しました。4月1日は約束をして長崎へ買い物に行く事にしていたので『約束を守らないお母さんは駄目お母さん』と涙を流さんばかりでした。
1日昼過ぎ、お母さんはFさんと一緒に帰って来ました。人に迷惑かけて本当に何才になっても子供のような母親です。この時瞳ちゃんは、お父さんに逢っている事を打ち明けました。二、三回逢ったと言われお祖父さんとお祖母さんはびっくりしました。お母さんは調停までしてお父さんと別れたのに何故又、逢ったりしたのか判りません。又、昔の辛い嫌な生活を忘れてしまってお父さんと仲直りするつもりでせうか?
生活する事も食べる事も出来なかった10年間の苦しみを、お母さんはこの一年間で忘れてしまったのでせうか?
呆れてお祖父さんもお祖母さんも言う言葉がありません。お母さんはどうしてこんな駄目な女になったのかお祖父さんもお祖母さんも本当に理解出来ないのです。
平成元年8月18日、今日はお母さんが頭が痛かったりして会社を休みました。お祖母さんは肘の病院へお祖父さんと行きました。帰って来たら「Fさんが来たので諫早まで行って来ます」という書き物があって、瞳ちゃんもお母さんも居りませんでした。
Fさんは会社でお母さんのお友達でした。瞳ちゃんも雲仙へ行ったり、諫早に遊びに行ったりして良く知ってましたね。それが急に5月から会社を辞めて、家にも帰らず行方不明のようになって、お母さんも心配していました。それが、貴女のお父さんとずっと一緒に生活していたのですね。
Fさんと諫早へ行って食事をして、喜々津へ帰ろうと車で送ってくれたFさんは喜々津の家に帰らず、長崎のお父さんの所に貴女とお母さんを連れて行きました。貴女とお母さんはびっくりしてしまいましたね。そこでどんな事が起こったのか小さい貴女には良く判らなかったかも知れませんが、お父さんがFさんと暮らしている事を知った貴女とお母さんは、そこで一泊して喜々津へ帰ってお祖父さんやお祖母さんに、その事情を説明してくれました。お祖母さんも本当にびっくりしました。
お母さんは貴女が成人するまで貴女を育てなければなりません。お父さんの子供として戸籍がありますが大きくなったら瞳ちゃんの考え次第で生活してゆかなければなりません。瞳ちゃんが一人前の大人としてお父さんやお母さんに負けないしっかりした生活をしてくれる事をお祖父さんもお祖母さんも心から希望しています。
平成2年1月13日、昼頃お祖父さんより電話がありました。『瞳ちゃんに逢わせて下さい』という事でした。でも『Fさんと一緒に住み、子供もいる事ですし、長崎の生活をしっかりする様に』と言って固く断りました。
長崎のお祖母さんに電話しましたところ、『会社で面白くない事があって又、会社を辞める様子だ』と言っておられました。お父さんの生活は本当に定まらない様子です。
『瞳ちゃんは喜々津で立派に育てて下さい。又育つ事を信じています』という長崎のお祖母さんの言葉でした。瞳ちゃんも今日から3年生です。一生懸命頑張って下さい。
4月1日~3日、スイミングクラブの催しで、東京ディズニーランドへ旅行。元気に出発して元気に帰りました。
今度は自分で働いて自分で旅行出来るように頑張って勉強して仕事を出来るようして下さい。
5月、お父さんが大浦天主堂下、観光土産物店で働いているとの事。お母さんと逢ったと言いましたが、又、いつか逢う約束をしたという事ですが、5月にはFさんに赤ちゃんが産まれる予定。いつまでも貴女達に逢ったりしないで赤ちゃんをしっかり育てる様にとお祖母さんは祈っています。
6月18日、中国よりお祖父さんのお友達が来られました。
19日、長崎の街を案内しましたが大浦天主堂の下の店でお父さんを見かけました。油絵船という所でした。
元気で働いている様子でした。いつまでも仕事をしてくれるといいと思います。
お母さんの帰りが最近遅くなってきたようです。お祖父さんが工場へ迎えに行っても居りません。よく飲み会とか言って遅く帰ったりします。
7月なってIさんという工場で働いている人とお付き合いしている事を知りました。
今後、どうなるか判りません。
貴女とお母さんの人生が思いやられます。
平成2年9月15日、お祖母さんが心配していた様にお母さんはIさんと一緒へどこかへ行きました。
瞳ちゃんにはジャスコに行くと約束しておいて…。
貴女は『お母さんは針千本飲ます』と約束したのに帰って来たら本当に飲むかなーと言いました。でも帰って来ません。
10月4日、Iさんより電話がありました。お母さんと一緒。
平成2年11月15日、待っても待ってもお母さんからは連絡ありません。
今日は、学校へお父さんが貴女の学校へ来ました。校長先生も担任の先生もびっくりしましたと連絡がありました。
貴女に2,000円与えました。貴女と別れて初めて呉れたお金です。今まで貴女の養育費も小遣いも品物も何一つとして送ってくれなかったお父さんです。
Fさんとは別れたそうで、どうなるお父さんでせうかね。
皆から嫌われるお父さんです。
でも貴女にとっては世界で只一人のお父さんですよね。本当に困ってしまいます。
11月16日、お父さんの店へ電話しました。お父さんはもう働いておりませんでした。
10月22日、病気で入院したと連絡がありましたのでどうしているかと思って今日病院へ電話したら11月2日へ退院したそうです。
それから店へは勤めていないのです。
又遊びぐせがついたのですね。
本当に困ったお父さんです。
長崎のお祖母さんに電話をしました。お父さんから学校へ来た事を言いました。そしたらお祖母さんはとてもびっくりしてお父さんは駄目な男だと言っておりました。
お父さんは瞳ちゃんを育てられないで喜々津の貴女を置いて長崎へ帰ったのです。
前にも書いた様にお金は総てお母さんと喜々津のお祖父さんが出して貴女を学校へ行かせているのです。
貴女を長崎へ連れて行っても学校へ行く事も食事をする事も出来ないのです。
瞳ちゃんはお父さんと暮らしたいと思うのは判りますが、それは出来ないのです。
◎お仕事をしない。お金がない。人に迷惑を掛けるような事ばかりする。
こんなお父さんは瞳ちゃんにとって本当に困ったお父さんです。
◎元気で喜々津で勉強してお父さんやお母さんよりもっともっと立派な女の人になるよう、喜々津のお祖父さんとお祖母さんは願っています。
平成2年12月20日、プレゼントが来ました。
◎ゲームボーイカセット まる子ちゃん
◎ぬいぐるみ クマ
◎ジェニーちゃんの洋服
貴女への誕生日プレゼントです。そしてクリスマスのプレゼントでもあります。
お母さんからです。貴女は何もメッセージがなかったので、誰からかな、サンタさんからよね、と、とてもとても喜びました。
◎12月28日、現金5万円来る。
11月から毎月5万円送って来ます。貴女の為の養育費です。瞳ちゃんの名義の銀行預金通帳を作りました。
今後どうなるのでせうか?どうしてお母さんは一人で帰って来る事が出来ないのでせうかね。自分の事だけしか考えられない人ですかね。
誰かを頼りにしなければ生きて行けない貴女のお母さんは哀れな人間です。私共はそんな人間に育てた覚えはないのですけど…。
お父さんとの生活がそのような性格を作ってしまったように思えます。
平成3年2月7日、お母さんより赤ちゃんが出来たと手紙が来ました。大人の事で今の瞳ちゃんには判らない事柄ですが、本当は産んではならない赤ちゃんです。
お母さんはどうしてこんなに理性がないのかとお祖母さんは情けなくなります。
瞳ちゃんには弟か妹かになりますけど、Iさんには奥さんも子供も居て、法律的には許されない出来事です。
生まれてくる赤ちゃんも可哀想な立場でこの世を生きて行く事になります。今からその苦労が思いやられます。
3月7日、Iさんとお母さんがどうしても瞳ちゃんを埼玉に連れて行くと言っています。
瞳ちゃんは、今、学校でもようやく勉強も何とか人並みに出来て、皆の人とも仲良く出来る様になりました。お祖母さん達は喜々津で育てたいと思いますが、お母さんの子供です。やはりお母さんと暮らすのが瞳ちゃんには一番いいのではないかと思い、埼玉へ転校するよう準備をする事にしました。
3月13日、今まで内緒にしていたお母さんの居所がIさんの奥さんへ判りました。Iさんがいつまでもお母さんと隠れて暮らす事は良くないと考え、皆で話し合って、すっきりとした気持ちで暮らしたいと思ったからだそうです。
瞳ちゃんが埼玉に行く前に話し合いをして、皆で判り合った上で瞳ちゃんを埼玉へ転居させようと考えます。だから春休みに転校する手続きをしようと思いましたが、今一度様子を見る事にします。
お母さんに逢える喜びでいっぱいの瞳ちゃんには気の毒ですが、今しばらく辛抱して埼玉へ行く事を待ちましょう。
平成3年3月20日、今日は終了式前の学習発表会でした。瞳ちゃんは小狐の役をしました。(手ぶくろを買いにの主役)本当にクラスで一番良く出来ました。先生も褒めて下さいました。最近瞳ちゃんはどんどん成長して行く様で本当に楽しみです。お母さんやお父さんと離れて暮らしていても、こんなに元気に成長するなんて本当に嬉しいです。
あれからお母さんから何度も引き取るという連絡がありました。4月から埼玉の学校へ行く事を決め、先生へ連絡しました。先生も何か戸惑っていらっしゃる様子でした。
26日、転校の手続きや色々の手続きを済ませて書類を作って来ました。29日は飛行機で東京まで送る事にしました。
MさんやYさんが遊びに来てくれました。最後の遊びになります。
3月29日、瞳ちゃんとお母さんの妹とお祖母さんとで東京へ行く日です。9:40出発11:00着羽田でお母さんと逢いました。
Iさんも来てました。昼食をして別れましたが、瞳ちゃんも何の遠慮もない様にお母さんとIさんに連れられて行きました。
元気で暮して下さい。今後、どの様になるか判りません。でも元気で頑張って下さい。
4月8日、瞳ちゃんから電話がありました。
元気でお友達も出来て安心しました。4年3組、女の先生、38人のクラス。勉強も頑張って下さい。体も丈夫になる様に祈っています。皆が元気に暮らせるように祈っています。
7月7日、瞳ちゃんに弟が産まれました。可愛がって下さい。大きくなったら仲良く暮らせる様にと祈っています。いろいろ大変な事もあると思いますが、頑張って下さい。
20日、瞳ちゃんが算数が出来ないと電話がありました。埼玉は長崎と違って大変勉強も進んでいます。瞳ちゃんが出来ないのは当然です。でも瞳ちゃんは頑張りマンです。何でも一生懸命にやります。
家の手伝い、弟の世話、転校して皆と別れるのも大変です。
勉強に力が入らないのも当然です。でも喜々津のお祖父さんとお祖母さんは、瞳ちゃんが明るくてたくましくて頑張り屋さんで、本当に本当に立派な素敵な子供と思っています。
とてもえらい子と思っています。
どうか、いつまでもいつまでも、元気で明るくて、可愛くて、素敵な瞳ちゃんであるように願っています。
勉強はいつもその気になれば出来ます。きっときっと勉強も出来ると思います。
お祖父さんもお祖母さんも信じています。
どんな事にも負けないで頑張って下さい。
[完]
最後までお付き合い下さりありがとうございました。
この日記帳には『祖母の愛』が詰まっています。
祖母からも母からも「生まれて来なければよかったのに。」と言われ育ち、辛い思いもしました。Iさんからの虐待もありました。イジメにもあいました。
けれど今、私は神戸でたくさんの方に愛されながら生きています。
私はここで生きています。
出逢った皆さま一人一人に感謝し、これからも生きて行きます。
ありがとうございます。
宇田 瞳